桜に慟哭

慟哭(どうこく)とは、悲しみに耐えきれずに声を上げて泣くこと である。

 

呆然自失としていた先のブログから時が流れ、cosmic!!の卒業ライブまであと残り二週間を切った。


何も感じないと思っていたのは間違いで、何も感じないように感情をシャットアウトしていた、というのが正しい。

 

ストレスに対応するため緊張していた凝りが少し解けはじめた所へ、最後の撮影会も終了という文字が否応無しに目から飛び込んできて私は久しぶりに泣いた。
泣いたら他にも色んな感情が堰を切ったように溢れ出てきて、アウトプットしないと爆発しそうになったので再び筆を執った。

 

今から綴る言葉は彼を推していた人には少々キツい言葉となってしまうかもしれない。読むことを無理強いはしない。

 


私という一人の人間としては、もう彼のことは本当にどうでもよくて興味がない状態だ。
考えてもどうしようもないし、そのことに囚われたくない。恨みつらみといったネガティブな感情にさいなまれるのはごめんである。

 

しかし、杏という一オタクとしては、どうでもいいのは変わらないが一生忘れてなんかやるもんかという気持ちである。
表現が難しいので伝わるか分からないが、恨みつらみとかは一切なく、ただずっと憶えているということ。
推しと話すまではそのうち忘れていくのかなと思っていたのだが…

きくちが、血を吐くように、振り絞るように、『仲間なんだから相談してくれればよかったのに…』と本当に悲しそうに言うものだから、そこで強火オタクのスイッチが入ってしまった。
世界一大切といっても過言ではない推しをこんなに悲しませやがって、絶許!!!!!といった感じである(真顔)(絶許ってまだ通じるのかな)

 

と、まあ冗談はさておき(半分本気)、
忘れたくても忘れられないというのが正しいだろう。
これまで過ごしてきた楽しい時間は消えないし、そこに彼がいたのもまた消えない事実なのだから。

 

私たちは矛盾した想いを抱えながら進んでいく。
どんなに涙を流しても、夜は明けるし、お腹はすくし、生活していかなければならない。
それが人間だからだ。

でもきっと絆創膏無しで過ごすにはまだ時間がかかるから、皆で身を寄せあっておしくらまんじゅうするのも悪くないと思う。

 

 

私たちには思い出を残す時間が許されている。
桜が散りゆく嵐に紛れても、きっと誰も気づかない。
4/9は泣いてもいいから全力で楽しんでいこう。