美しい景色を見ると、ああ綺麗だなあと思うのと同時にどうしようもない喪失感に襲われるのは自分だけだろうか。
誰かにプレゼントを贈る時、開ける前のサイダー、鍋をコンロにかけている時間、真新しい文庫本を開いて新しいインクのにおいが通り抜けた時。
何か月も何日も前から準備をして、頭の中でシュミレーションして。当日も心躍らせながら、時には緊張してその瞬間目指して突き進む。
カタチに残るものが好きだ。
ああ、あの時間は確かに存在していたのだと思えるから。
ずっとずっと前から心の大部分を占領していて日夜をともにしていたもの。
ああでもないこうでもないと考えては消して。
自分の一部とも言えるぐらい大きくなったそれ。
でも時間は止まってくれない。始まりはあるし終わりも来る。
大きな喪失感を味わうのが嫌で無意識に熱中する事象を避けてきたように思う。
服と本が好き。
でもどうしてか満足感には欠けていた。手に入れた瞬間はいい。でも気づけば部屋の隅に追いやられて埃をかぶっている。そしていつの日かごみ箱行き。
なんだ、結局捨てるのならカタチになっていたって意味ないじゃないか。そう気づいてしまったのがここ一年くらいのこと。
一年前のとある日、静かなカフェで長年の友人にMeseMoa.を布教されて気づけば彼らの魅力に憑りつかれていた。
「ライブのチケット一枚あるけど」
そう言われて元来軽率な私はほいほいライブ会場に向かうべく新幹線に乗っていた。
久しぶりの胸の高鳴り。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた人々の隙間で、キンブレなるものを借り友人にカラチェンしてもらいながら、会場全体の一種異様な高まりを感じていた。
彼らの歌声を聴いた時の衝撃は忘れられない。
歌ではない。確かに歌も楽しんでいたのだろうと思うが、元々私が好きなのはロックで、MeseMoa.の曲もSK、MW、FWぐらいしか分かっていなかった。
楽しんでほしい、楽しみたい。
純粋に、ストレートに、その思いが鼓膜を通して脳を揺さぶってきたのだ。
年中無休で涙腺枯渇している私が泣きそうになるくらいには。
彼らなら推したい、そう思った。
フリラ、リリイベ、撮影会etc.
それらの存在をこの界隈に来て初めて知った。
一分間三千円。三時間五千円。
後に残るのはふわふわとした多幸感。
あれほど嫌っていたカタチに残らないもの。
しかし不思議なものだ。優しくはない現実を生き抜く上で支えになっているのはそれらなのだから。
ライブや接触のあとに喪失感がないと言えばそれは嘘になる。毎回終わる度にああ、楽しみにしていたことが終わってしまったと電車に揺られながら帰路についている。
Twitterやブログで彼らの心情を知れること。SNSでファンと感想を共有できること。
目に見えるカタチとしては残る。しかし物質ではない。
なのに何故かこんなにも心の多くの部分を彼らが占めている。
私は昔の彼らのことを知らないし、ましてやアイドルやアイドルを取り巻く環境について詳しいわけでもない。
知っているのはMeseMoa.だけ。
大阪公演には参戦していないのでTLに流れてくる感想をみるだけなのだが、どうやら今年の彼らのライブツアーは更にパワーアップしているらしい。
楽しみで仕方ないし、推しの凱旋公演は何がなんでも観たいと思った。
ふと気づいた。この心の高鳴りは、カタチに残るものを手に入れた時以上のものではないかと。
刹那的なものに喪失感があるのはつきものである。
しかし彼らは、MeseMoa.はきっともっといい次を見せてくれると私は思っている。
楽しみにしていたことが終わってしまった、その心に空いた穴をあっさり埋めてくれる彼ら。むしろその喪失感以上に大きい多幸感を与えてくれる。
勿論、その陰には多くの人のサポートと彼らの努力がある。
努力していることを鼻にかけず、ただ事実として今日はこんな感じの日だったと呟くだけ。
でも周囲の人への感謝は忘れない。
パフォーマンスが素晴らしくても人間性が見えてこなければ推そうとは思えない。
私はアイドルは偶像になりがちなのではないかと思っているが、MeseMoa.はそんな枠には収まってくれない。九人が九人とも人間味溢れている。
彼らの目標は武道館でのワンマンライブ。
私はMeseMoa.ならそれを達成できると思っているが、そのライブもきっと開演してしまえば一瞬で終わってしまうのだろう。
MeseMoa.は多くのライブや接触イベントを経て、目には見えないけれど確かに我々の心に色褪せないものを残してきた。
刹那を積み重ねて、MeseMoa.はそれを永遠に変えていく。
多くの人々の心をとらえて離さないのはきっとそういうことなのだろう。